人間と人工知能の違い

Laborifyをみているみなさま、はじめまして、西島佑(にしじまゆう)といいます。

わたしは、上智大学総合グローバル学部で「特別研究員」という大学の学部を手伝うお仕事をしながら研究をしています。

わたしの研究分野はいくつかあるのですが、そのうちの1つに、いわゆる「文系」の立場から人工知能と社会の関係を考えるというものがあります。

2019年の現在、「人工知能」(artificial intelligence; AI)という言葉を聞く機会が多くなりましたね。

これだけ人工知能がもてはやされるようになったのは、2010年代半ばにはじまった「第三次AIブーム」とよばれる人工知能のブームからです。わりと最近ですね。

「第三次」ということは、過去にもブームは2回あったことになります。しかし、過去にあったブームはいずれも失敗しています。第三次AIブームは、はじめて本格的に社会で人工知能がつかわれるようになったブームです。

わたしは人工知能のなかでも、とくにGoogle翻訳やBing翻訳のような「機械翻訳」(machine translation)とよばれるものに興味があります。

わたしが文系の立場から人工知能を研究しようと思ったのは、まだ大学院生だった2015年度に、上智大学理工学部・理工学研究科が主催する「テイヤール・ド・シャルダン奨学金」という懸賞論文に応募したことがきっかけです。

この懸賞論文に「人工知能・機械翻訳」をテーマにした論文を書いて応募したところ金賞を受賞をしました。これがきっかけとなり、わたしは人工知能を研究しはじめることになりました。

それにしても、このまま人工知能が技術的に発展すると、どうなるのでしょうかね?

たとえば英語を学ぶ必要はなくなるのでしょうか?あるいは海外に行っても困らなくなるのでしょうか?通訳や翻訳といった仕事はなくなっていくのでしょうか?人間と人工知能で言語をつかうことに違いはあるのでしょうか?

以下からは、このような観点から人間と人工知能の違いについてすこしだけお話させていただければと思います。

機械翻訳について

みなさんは、Google翻訳やBing翻訳をつかったことはありますか?おそらく、この記事をみている方であれば、つかったことのある方が多いのではないかと思います。

それでは機械翻訳をどのようにつかっていますか?英語の宿題をやるときにつかっていますか?それとも、なんらかの事情で英語などの文章を読むときや、書くときにつかっていますか?

たしかに機械翻訳は便利です。しかし、便利であるがために次で述べるような疑問も浮かびます。

機械翻訳があれば言語を学ぶ必要はない?

いま、機械翻訳は日に日に高度になっています。たとえば英語の場合だと、観光や特許といった特定の分野であれば、すでにTOEIC900点に届くともいわれています。

そうだとすると、機械翻訳は、大抵の人よりも英語ができてしまうことになりますね。

機械翻訳の精度がどこまで上がるのか、まだわかりません。いまよりも高度になっていく可能性は十分にあります。

機械翻訳がこれからも高度になっていくのであれば、もう英語に限らず、日本語以外の言語を学ぶ必要がなくなるのではという疑問すら出てきます。こうしたことについて考えてみましょう。

人工知能は、人間のように言語を理解できるのか?

人間は、これからも言語を学ぶ必要があるのでしょうか。それは次のような問いにある程度でもこたえを出すことでみえてきます。

その問いとは、「人工知能は、人間のように言語を理解できるのか?」です。

もし、いずれ人工知能が人間のように言語を理解できるようになるのであれば、たしかに人間が努力して言語を学ぶ必要はなくなるといえるのかもしれません。全部AIに任せればいい。

でも、そうではないとしたらどうでしょう?人工知能は、人間のようには言語を理解できないとしたら?それなら人間が言語を学ぶ意義は残るといえるかもしれません。

人間と人工知能は、どのように言語を理解する点で異なるのか?こうした哲学的(文系的)な問いが、今後の社会と人工知能を考えていくためにも無視できないものとなっています。

背景

上記のような問いは、わたしが最初に提起したわけではありません。

第三次AIブーム(2010年半ば以降)よりも前にあった第一次AIブーム(1950年後半~1960年前半)と第二次AIブーム(1980年前後)のころにも似たような議論を行った哲学者たちがいました。

※AIブームの時期は、学術的に確定的なものとはなっていません。人によって多少前後しますので、注意してください。

とくに知られているのは、ヒューバート・ドレイファスとジョン・サールという哲学者の議論です。2人ともアメリカの哲学者です。

ドレイファスの議論は複雑なので、ここではサールの議論を紹介しましょう。

サールの議論

1980年にサールは、人工知能が言語を人間のように理解できるのかを問うています。

そのときにサールは「人工知能は統語論的に言語を理解できても、意味論的には理解できない」と述べています。

「統語論」(とうごろん)とか「意味論」(いみろん)だとか、すこし難しい言葉がでてきましたね。まずはこれらの言葉について確認してみましょう。

統語論と意味論って?

言葉の説明からはじめましょう。まず「統語論」とは文法のようなことをいいます。本当は文法より広いことをいうのですが、ここでは「文法」と理解しておきましょう。次に「意味論」とは文で伝えようとしている意味をいいます。

次の例で考えてみましょう。以前わたしが、日本語を勉強中の留学生と話をしていたときにきいた発言です。

ちょうど虫の話をしていて、お互いの好きな虫、嫌いな虫の話をしていました。

わたしが「ヘラクレスオオカブト」というカブトムシが好きだと述べると、留学生は次のようにいいました。

例:わたし・・・カ・・トブムシ・・・きらいです

その留学生は、日本語を勉強しはじめたばかりのようで、まだ慣れていないみたいでした。だから、すこし「ぎこちない」です。

みなさんは上記の文章を理解できるでしょうか?「カ・・トブムシ」ってなんでしょうかね。「カブトムシ」のことでしょうか?(最初わたしはそう思いました)

上記の文章は統語論的には「まちがい」です。

もし相手がいいたいのが「カブトムシ」だとすると、統語論的(文法的)に「ただしく」いうのであれば、「わたしはカブトムシが嫌いです」というのが「ただしい」のでしょう。

しかし、その留学生がいいたかったことはなんとなく想像がつきますよね。「カ・・トブムシ」って「カブトムシ」のことなのかなと文の意味を想像することができます。これが「意味論的にわかる」ということです。

サールが述べた「人工知能は統語論的に言語を理解できても、意味論的には理解できない」とは、人間は、統語論的に「まちがっている」文章でも意味を理解することができるのに対して、人工知能にはそれができないということなのだと考えられます。

たしかに、人工知能は「カ・・トブムシ」を「カブトムシ」なのかな?とは思ったりしません。それができるのは人間だけですね。

サールの議論は古くない

サールの議論は1980年(第二次AIブーム期)のものなので、いまからみると古いAIを念頭に置いています。ただし、彼の議論は現代でも妥当です。

とはいえ、当時といまでは状況が違うことを無視することもできません。少し前にお話したように、現在の第三次AIブームでは、人工知能はすでに社会へと入ってきているからです。たとえばパソコンやスマートフォン、ゲームもすべてAIがとりいれられています。

「人工知能が人間の仕事を奪うのではないか」と心配する声もよくききます。機械翻訳の場合、翻訳者や通訳者、言語を教える教師の仕事がなくなるのか気になりますね。

このような状況のなかで、あらためて「人間と人工知能の違いってなに?」という問いが意味をもちます。もし人工知能にはできないことが人間にあれば、「仕事が完全になくなるということはない」と述べることができるからです。

あらためて「人間と人工知能の違い」とは?

問いが「人間と人工知能の違いってなに?」なのであれば、その解決策とは、当たり前ですが人間と人工知能の違いを考察することになります。

「人間とはなにか?」「人工知能とはどのように違うのか?」というように考えていくわけです。

それにはいろいろとやり方がありますが、ここではサールの議論を引き継ぎながら考えてみましょう。

本論

これまで述べてきたサールの議論を受けて、「人間は統語論的にまちがっている文章でも、意味論的に理解することができる」ということから考えてみましょう。

この観点1つとっても、人間と人工知能の今後の見通しについてわかることがあります。

「意味論的にわかる」とは?

サールの議論を発展させるためには、「意味論的にわかる」ということをもう少しよく考えてみる必要があります。ややこしいことではありません。

相手が述べている意味を自分が理解しているのかどうか、どうやって確認するのでしょうか?これをきちんといえればよいのです。

留学生は別のことをいいたかった?

前述の留学生の例をもう一度参照することとしましょう。

例(再掲):わたし・・・カ・・トブムシ・・・きらいです

さきほどは、留学生がいいたかったのは「わたしはカブトムシがきらいです」なのではないかと述べました。

しかし、これが本当にその留学生がいいたかったことなのかはわかりません。

ここで留学生がいいたかったことは別のことであったと「仮定」(かてい)しましょう。「仮定」とは、「本当のところはわからないけれど、いまの段階ではひとまずそれがただしいとして話しをすすめましょう」ということです。

ここでは、その留学生は「わたしはカブトムシがきらいです」と述べたいわけではないことになります。

それでは、どうすれば、その留学生が本当に述べたかったことを知ることができるのでしょうか?

他者に問いかけ、他者のいいたいことを想像する

上記の留学生の発言を機械翻訳にかけてみましょう。以下はGoogle翻訳にかけてみた例です(2019年9月にやってみました)。

例②)I … Ka Tobumushi … I dislike it

ここでは「カ・・トブムシ」をKa Tobumushiと訳していますね。カタカナをそのままアルファベットにしています。

この例から人工知能は、「カ・・トブムシ」がなんであるかを理解しているようにはみえません。

ところが人間であれば、サールが述べるように、統語論的に間違っている文章でも意味論的に理解できるはずです。つまり「カ・・トブムシ」でいわんとしていることも理解できるはずです。

それではわたしは、どのようにその留学生がいいたいことを理解することができるのでしょうか?

こたえは単純です。その留学生に「あなたがいいたいのは『カブトムシ』のことですか?」ときけばよいのです。

実際に、そのとき留学生に上記のようにきいてみたのですが、どうやら違ったようです。その留学生がいいたかったのは、「わたし(は)・・蚊(のような)飛ぶ虫がきらいです」ということでした。

もしわたしが通訳者/翻訳者であれば、それをきいた後なら次のように訳すかと思います。

I dislike flying insects like mosquitoes. 

ずいぶん機械翻訳と違う訳になりました。

「意味論的にわかる」とは、このように相手に問いかけて確認したり、相手のいいたいことを想像することをいいます。

「あなたのいいたいことはこういうことですか?それともこういうことですか?」「この人が伝えたいのはこういうことなのかな?」というようにです。

人間と人工知能の違いとは

意味論的に理解しようとすることとは、他者のいいたいことを想像していることになります。「相手がいいたいことはこういうことなのかな?」と考えているからです。

これこそ人工知能にはできないことです。いいかえると、人間だけができることです。

こうしたことは、「人工知能が人間の仕事を奪う?」「人工知能は、人間のように言語を理解できるのか?」といった疑問を考える上でも参考になります。

たとえば機械翻訳が今後も発展していくのだとしても、他者を想像することはできません。そうであるのならば、人間の翻訳や通訳の仕事が残るかどうかは、他者を想像するような翻訳/通訳であれば残り続けることになるでしょう。

具体的にいうと、「意訳」とよばれる翻訳があります。意訳とは、原文を忠実に訳すのではなく、時には原文にはないような言葉をつかって意味的に訳すことをいいます。意訳は、なかなか人工知能にはできません。

逆に、もし人間が統語論的な翻訳/通訳だけをやり続けていると、「いずれ翻訳や通訳の仕事は人工知能に任せてもいいんじゃないか」となっていくかもしれません。

このように人間と人工知能の違いについて考えていくことが、今後、両者のあり方を考えるきっかけになるのではないでしょうか 。

おわりに

ここまで読んでいただいてありがとうございます。この記事で紹介したことは、人間と人工知能について考えるためのほんの一例でしかありません。まだまだわからないことはたくさんあります。

最後に、この記事のような研究テーマに関心のある方、一緒に問題を考えてみたいという方がいたときのためにいくつか文献を紹介させていただきます。

本記事は、「文系」とよばれる立場からの議論ですが、理系の立場から似たような議論を教えてほしいという方もいるかもしれません。

その場合、新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』東洋経済新報社、2018年がよいと思います。

新井先生は、「東ロボ」くんと呼ばれるAIに東京大学合格を挑戦させるなかで、AIにはなにができて、なにができないのかをみきわめる研究をした方です。

もし、わたしの議論に関心のある方がいましたら、瀧田寧・西島佑編著『機械翻訳と未来社会ー言語の壁はなくなるのか』社会評論社、2019年を読んでみてください。

同書では、わたし以外にも社会言語学や文学の研究者が似たようなテーマを論じています。またこの記事では紹介し切れなかったサールによるほかの議論や、ドレイファスの議論も紹介しています。

冒頭で述べた懸賞論文に関心がありましたら「「特異点」と「技術」からみる言語と社会の過去と未来 ーテイヤール・ド・シャルダンの思想をてがかりに」(http://www.st.sophia.ac.jp/chardin/)を参照ください。リンク先の2015年度です。

この分野は、まだはじまったばかりなので、若い方が参入しやすい分野といえます。理系だけではなく、文系のほうでも人工知能について考えていきましょう!