ウェブ小説から読み解くポストモダンの問題

こんにちは。北海道大学大学院、文学院所属の酒井駿太郎です。
私はいわゆるオタク文化を研究しており、その中でも特に、投稿サイトなどを使ってインターネット上で発表される小説、「ウェブ小説」を研究対象としています。

ウェブ小説はまだ生まれたばかりの、興味深い研究対象です。

全文が無料で公開されていながら、人気を博して商業出版までされる作品も多い一方、よく見てみると、いわゆる「二次創作」――あるオリジナル作品のキャラクターなどを借りて行う、非公式な創作行為でありファン活動――に似ているところが沢山あります。

オリジナル作品として流通していながら、二次創作という「非公式」な文化――肩肘張らず好きなように遊ぶ文化の血を、色濃く受け継いでいる。
それは同時に、「非公式」の楽しみだけでなく、その裏面として抱える問題を、ウェブ小説が受け継いでいるということでもあります。

詳しくは後述しますが、それは一言でいえば、現代に生きる我々の生の課題を、楽しさの一方で忘れてしまう、というような問題です。

ウェブ小説は今の所、文学の研究対象として認められているとは言えません。私の研究テーマは、「思い切り遊ぶ」小説としてのウェブ小説の文学性を検討することです。

さて、初めにお断りしなければならないのですが、ウェブ小説が文学の分野で研究対象として認められている訳ではない、つまり、先行研究が殆どないという都合から、この記事は少し変わった構成を取ります。

まず導入として、ウェブ小説の発展の経緯と、その特徴について、もう少し詳しく説明します。

次に、先行研究として、ウェブ小説の先輩とも言える小説「ライトノベル」の分野での文学の研究成果と、現在の課題について説明します。

そしてその後、私の研究について説明したいと思います。

ライトノベルが今でも抱えている課題を、ウェブ小説もまた、或いはライトノベル以上に重い課題として抱え、それが実際の作品に影響を及ぼしているのではないか、というのが、私の仮説だからです。

紙幅の都合であまり詳しくは触れられませんが、最後の方では、私の研究成果である具体的な論文の内容にも触れたいと思います。


導入――ウェブ小説とは何なのか?

ウェブ小説の出自、発展の経緯

ウェブ小説の出発点は、インターネットの前身、パソコン通信の時代にまで遡ります。掲示板上に小説を投稿し、参加者同士で評価し合う場があり、そこでの活動が後に「文字を使った作品の投稿」という文化へと発展していきました。

当時は通信容量の問題もあり、動画や音楽などといった形での創作はネット上では共有しづらかったのです。

インターネットの時代に入ってからは、個人サイトを開設して作品を載せたり、そのようなサイト同士でリンクを張り合ったり、やがてそういった個人サイトへのリンクが集約されたウェブリングや小説検索サイトといったものが出てきて、創作活動としての輪が広がっていきます。

同じくして、各自のサイト以外の投稿手段として、匿名掲示板や投稿サイト(投稿専用掲示板)などにも利用者が集まりました。これらの作品発表手段が出そろったのが九〇年代終盤~二〇〇〇年代とされています。

三者三様の文化がある中、「小説家になろう」(二〇〇四年開設)等から書籍化された作品のブレイクにより書籍化ラッシュが始まります。市場との経路が太く育っていくにつれ、投稿サイトが特に存在感を強めていくことになります。

それは書籍化作品の出自である、ウェブ小説というジャンル自体が認知されるということでもありました。

ウェブ小説由来の作品がアニメ化されることも一般的となり、二〇一五年にはライトノベルの出版大手、KADOKAWAによるウェブ小説投稿サイト「カクヨム」がオープン、作品輩出の場としていよいよ市民権を獲得したような形となりました。

なお、二次創作との接点が濃くなり始めたのは一九九〇年代中盤だと言われています。アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の社会現象化などと連動して、ウェブ上でも二次創作が流行し、以後定着していったとされています。

ウェブ小説の特徴①内容重複の許容、重複箇所の捨象の許容

次は、ウェブ小説の特徴について、もう少し詳しく説明したいと思います。ウェブ小説は「二次創作」的である、と初めに書きましたが、それはどういうことなのか?

まず、ウェブ小説には、既に投稿され、注目や関心を集めている題材や内容を利用してよい、という特徴があります。「流行に乗ることが許容されている」と言い換えることも出来るでしょうが、それだけではありません。

例えば、「主人公が現実世界で死んでしまい、異世界に転生する物語(異世界転生もの)」がよく読まれていると仮定します。

すると、「よし、異世界転生ものを書こう」と決めて差し支えないばかりでなく、「読者は最近異世界転生ものを沢山読んでいるから、主人公が異世界に行くまでの展開のうち、他と違わない部分を思い切り省いてしまおう」と、内容を省く――捨象するところまで行ってしまっても問題がない。

内容が露骨に似ているものを書くだけではなく、似ていてありきたりな部分を省略して書いてしまってもよいのです。

ウェブ小説の特徴②興味・関心への注力の許容、無関心部分の捨象の許容

また、単に「既によく書かれている部分を省く」以外にも、作者の興味や関心が薄い部分を捨象してよい(そうしても問題にならない)という特徴も見られます。

例えば主人公が転生し、やる気や記憶を維持したまま新しい身体で人生を始めたことで、能力が人より極端に秀でることになったとします。

それは視野や感覚、考えの複雑化や精緻化など、様々な変化をその人の意識にもたらすはずですが、それがどのような変化なのか、ウェブ小説では必ずしも詳しく書く必要はありません。

もしこれがSFというジャンルでのことなら、未知の経験をした人間が何を感じるのか、どう変化してしまうのかという考察こそが、物語としての面白みを作る「おいしい」部分とされるでしょうし、考えもなく無視しては批判の原因にもなるでしょう。SFの愛読者でなくても多少は気にするかもしれません。

ですが、ウェブ小説ではその無視、捨象は必ずしも問題となりません。

変化は書かれても良いですし、さっと飛ばされて作者の考える「肝心の面白い場面」が書き始められることになってもよい、そういう「お約束」がウェブ小説には存在しているのです。

これらをまとめて、多くの、潔いほどの捨象を許容してはばからないのがウェブ小説の主な特徴である、としてもよいでしょう。

先述の二次創作もこれと全く同じ特徴を持ちます。ウェブ小説はそれをオリジナルの創作として行っている点が異なりますが、 逆を言えばその点以外では非常に「二次創作的」であると言えるのです。

ウェブ小説の特徴③ライトノベルの特性との類似

そして、これは同時に、ライトノベルの特徴ともある程度重なるものです。

ライトノベルは「キャラクター小説」とも呼ばれ、人となりを掴みやすい特徴的な口調や、まんが的な外見イラストなど、「キャラクター化」とでも呼ぶべき、登場人物に対するある種の捨象が特徴とされます。内容面でも、ウェブ小説ほど極端ではありませんが、上述した①、②の特徴と同様の捨象が許容されます。

ウェブ小説とライトノベルは元々文化の系譜上、かなり近しいものとしてあります。ウェブ小説は歴史的にも内容的にも、二次創作と切っても切り離せない関係にありますが、この二次創作の元となった主な作品には『ゼロの使い魔』『涼宮ハルヒの憂鬱』などライトノベル由来の作品が複数存在します。

極端な言い方をするならば、ウェブ小説の文化はライトノベルの真似をする、面白さのエッセンスを取り入れることによって育まれてきたとも言えるのです。

以上を踏まえて言えば、ウェブ小説は、ライトノベルが築き上げてきたものに二次創作的な特徴が合流したことで生まれた、ライトノベルの亜種、流行への敏感さと捨象的な特徴がより強く現れている小説、とも位置づけることが出来るかと思います。

ライトノベル、二次創作によるウェブ小説への影響

悪く言えば省きすぎで身も蓋もない、良く言えば、自分たちの好きな部分にだけ極端に注力した小説と言えます。では、こういった小説に注目する意義にはどういうものがあるでしょうか?

先行研究

ライトノベルと文学――ポストモダンの実存の問題

ここで一旦、ライトノベル分野の先行研究の話になります。今から十年ほど前、思想家・小説家の東浩紀が、現代の我々が抱えるポストモダンの問題について、ライトノベルが解決・考察の糸口を与えるという論を提出しました。

ポストモダンの問題、とは説明が難しいのですが、敢えて大雑把に要約すれば、「人生は偶然の積み重ねでしかなく、人間は自分の人生、未来をコントロールすることは出来ないという事実に対し、どう生きるか」というような問題です。

現代以前では、人間の営み、生み出す文化は、もう少し社会全体を、ひいては人間一人一人の人生を制御する力を持っていると考えられていたのですが、そういった信頼が失われ、より「正解のない」状況になっているということです。

ポストモダンのオタクと二次創作――「思い切り遊ぶ」ことの負の側面

そういった状況に対し、例えばオタクは、二次創作に打ち込むことで、見つからないはずの正解を探し続けていると言われています。
(「オタク」の定義は様々ですが、ここでは国内サブカルチャーの愛好者、特にまんが・アニメ等を愛好する人々を指しています。また世代的には、一九八〇年代以降生まれ、ネットに特に親しんでいるとされる世代を念頭に置いています)

正解がない――必然的に一つの人生に決まる、要するに運命のようなものがない、と解っていながら、幾つものあり得た可能性、ifの未来を想像しては収集することで、未来をコレクションし、起きうる未来を網羅する。

あまりいい表現ではないと思いますが、人生というランダム性の強いゲームシナリオの、ごく一部分だけでも攻略し尽くし、それによって部分的にでも人生の攻略法を見つけようとする態度、とも言い換えられるでしょうか。

当然、そういうことをしても偶然には敵いません。現実はもっと複雑ですし、ほんのちょっとしたことで、歯車は幾らでもズレてしまう。

二次創作は、ポストモダンの問題の解決策にならないどころか、そういった覆しがたい重要な事実への問題意識を減退させてしまう――偶然性に対する感覚を麻痺させる効果を持っている点が問題視されたのです。

二次創作について、最初に私は、思い切り遊ぶ非公式の文化だと書きました。それはとても楽しいものなのですが、これがその裏面、非公式の文化が持ってしまっている負の側面ということになります。

思考実験装置としてのライトノベル――「偶然性に対する麻痺」からの脱出

東が主張したのは、この麻痺状態から離れるための糸口として、ライトノベルが役割を果たせるということでした。

ライトノベルは「どうでもいいところは省き、そうでないところには力を入れて書く」という捨象の特徴を持っています。

この特徴が、荒唐無稽な設定や展開を容易にし、ある種の思考実験を行いやすくする。そしてその思考実験こそが、二次創作による麻痺を打ち消す方向に働くのだと東は述べたのです。

どういうことでしょうか。

東は彼の重視する思考実験のあり方を「ゲーム的リアリズム」と名付け、主人公がタイムスリップなどにより特定の時間を繰り返すループ構造のライトノベルに注目しました。

ここでは、主人公はループの外に出るため、何らかの条件を満たすことを目指して同じ時間の中で繰り返し行動します。つまり、あり得た可能性を順に辿り、ifの未来を順番にチェックするという物語が展開されます。

この造りが、主人公をプレイヤー(操作キャラが死んだりゲーム内時間が戻っても記憶と目的を引き継ぐもの)として進行するゲームに似ていることから、「ゲーム的リアリズム」と呼ばれます。

この物語構造の中で強調されるのは、「上手くいっても失敗しても、ループは最後の一回のプレイ内容でセーブされること」、つまりどれだけifの物語を追求しても、最後に現実となる結末はたった一つという事実です。

この特徴は、二次創作的な想像力、ifを考える発想を強く牽制する形で偶然性の受け入れを訴えるものとして機能します。

オタクにとってはこういった作品は、「どれだけ事例を集めたところで、たった一回偶然に左右されてやり直せない人生を覚悟しなければならない」というメッセージとなります。そういった点を、東は評価したのです。

残された問題点

しかし問題もありました。結局のところ、これは偶然性を強く意識して覚悟する思考と、事例を集めて偶然性に対する安心を得ようとしてしまう、二次創作の副作用的誘惑との綱引きに過ぎません。

物語の数が揃えば、そこにはコレクションの欲望が現れてしまう。自分たちの手による二次創作がしにくくなっても、類似する作品を集めることで、間接的に二次創作の時と同じ麻痺的効果を生むことが出来てしまいます。

つまり、「最後の偶然的な一回によるセーブを受け入れ生きていく」物語を無数に集めることで、「偶然的な一回によるセーブを受け入れるしかない人生を攻略する」という視点が成立してしまうのです。

筆者の研究内容

問題の元凶としてのウェブ小説と、その可能性

そしてこの視点は、二次創作の良い点と悪い点をいずれも受け継いだ、他でもないウェブ小説の中で特に発揮されてしまっているものなのです。

例えばウェブ小説では、流行の一つとして「異世界転生もの」というジャンルがあります。

目まぐるしく流行の移り変わるウェブ小説のことですから、大御所である当ジャンルの流行もいつまで続くかは解りませんが、ともあれ述べますと、このジャンルでの王道の一つは「現代人が死亡して異世界に転生し、第二の人生を送る」というものです。

東の注目したループ小説と比べて「何度もやり直す」という要素は薄れているように見えますが、これも「ゲーム的リアリズム」を立派に発揮した作品と言えます。

主人公の現代人はしばしば「現代人が死んで転生するフィクション」のことを知っていて、その知識を前提に異世界の攻略を試みようとするからです。

作中で実際にループを経験する作品は限られていますが、「最後の一回」について知識ややる気を持った状態で人生を開始する、という点では十分「ゲーム的リアリズム」が発揮されています。

しかしここでは、最初に説明したウェブ小説のお約束が大きな問題になります。「最後の一回」に臨む筋書きの作品が多すぎるのです。

その結果、ここでは「ゲーム的リアリズム」による偶然性を受け入れるべきとの強調はコレクションの欲望に押し流されてしまい、たった一度の選択はそれ自体が(大筋が似ている作品をとっかえひっかえして読むことで)読者の中で何度も繰り返されます。

ライトノベルの文学において問題だったものを、ウェブ小説はより尖ったその性質のために表沙汰にしてしまったと言えます。

しかしそうなのであれば、その状況を前提として、現在の麻痺に対抗する新しい思考実験を考えることは出来ないでしょうか?そういった作品を取り上げて論じようとするのが、私の研究ということになります。

作品論 理不尽な孫の手『無職転生~異世界行ったら本気だす~』

この作品は表面上、先ほど上げた「無数に存在するゲーム的リアリズム作品」というものの典型的な一つです。

主人公は現代人で、いわゆる転生というものへの知識を持っています。転生先の世界はRPGのような剣と魔法の世界ですが、主人公はオタクであり、そういったゲームの知識も持っており、副題通り、「本気だ」して転生後の人生を生きることを決意します。

父親の死や、中途に未来から来た自分から忠告を受け歴史を変える決意をするなど、先の見えない「一度きりの人生」に精一杯手を尽くし、最終的には満足した一生を終えるという筋書きになっています。

一方、その裏で、この作品はストレートな「ゲーム的リアリズム作品」とは違う特徴を併せ持っています。それは、「劇的ではなく面白くもない終わり」、平凡なエンディングの可能性を何本も作中に仕込んでいることです。

「最初の村」を出る事なく、そこそこに頑張ってメインヒロインの一人と結ばれ、一生をそれなりに終えた可能性、サブヒロインと結婚して、やはり幸福に、しかし本編ではその後に待っている冒険を経験せずに終わった可能性、悪神と勇者の対決に利用され、酒浸りの日々を送ることになる可能性……視点を広げ、エンディングで明かされる物語のネタばらしまでを含めればまだまだあります。

ある一面で、「無職転生」は「ゲーム的リアリズム」の作品として劇的に「最後の一回」を生き抜く作品です。しかし一方で、本編の理想的な、満足のいく結末に無事辿り着くエンディングは、無数の平凡なエンディングの中からたまたま生じてきたものに過ぎないことを暗に強調する造りとなっているのです。

いかにも物語らしい、多くの障害との戦い自体、起こらなかった可能性なんて幾らでもあったのだとしたら?物語は、表面上面白い「最後の一回」を本筋としたが、もっとぱっとしない「最後の一回」なんて幾らでもあったのだとしたら?

これは無数の作品を読むことで偶然性に対する感覚が麻痺してしまった読者にとって、今までの作品全てに遡って機能する偶然性の強調となり得ます。

それは、今までコレクションしてきた「最後の一回」が成功に終わる物語を、もっと味気ない、どうしようもない偶然の産物にしてしまう見方だからです。

その意味で、この作品は現代的な意味で、ウェブ小説が露骨に抱えている問題に対する、思考実験を内包した作品だと言えることになります。

おおよそ以上が、私の論文での研究成果になります。

終わりに

今後の研究の展開

説明を解りやすくする都合上、今回は割愛したのですが、実は二次創作の「らしさ」や「麻痺」の在り方、ウェブ小説の「二次創作的」なもの以外の特徴など、ウェブ小説を論じるために考えるべきことはまだまだ沢山あります。

それらを見ていった結果、ウェブ小説の更にユニークな点が見つかるかもしれませんし、「こんなことなら、わざわざ研究するほどの価値はないのではないか」と思うような結論に辿り着いてしまうかもしれません。

新しい研究対象に手を出すことの楽しみであり、きちんと受け止めなければならないところでもあります。いずれにせよ、判明していないことは多いので、研究を進めていくことになるでしょう。

広く認められている研究対象でもありませんから、もし興味をお持ちになって頂けたなら、例え別の角度からでも研究し掘り下げて頂けたら、これほどありがたい事はありません。

以下の参考文献では、取り上げました作品と私の論文、説明に当たって参照した文献、ほか参考となる文献についてまとめました。詳しくお知りになりたい方は、是非ページをめくってみてください。

参考文献

以下、webページの最終参照日は公開日と同じ。

  • 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社、二〇〇七)
  • 井上明人「『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第22回 リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 前編<番外編>」(二〇一七、https://note.mu/wakusei2nd/n/n0d5844216254
  • ――――「『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第22回 リアル異世界物語と、ゲーム的想像力:九井諒子、橙乃ままれ、なろう小説 後編<番外編>」(二〇一八、https://note.mu/wakusei2nd/n/n5b9b37fb37ee
  • 大澤真幸「マルチストーリーズ・マルチエンディング」(『帝国的ナショナリズム』青土社、二〇〇四)
  • 大塚英志『キャラクター小説の作り方』(講談社、二〇〇三)
  • 大橋崇行「ウェブ小説の流行とウェブ雑誌の拡張」(『ライトノベル・フロントライン2』青弓社、二〇一六)
  • 拙稿「『無職転生』論―ウェブ小説におけるゲーム的リアリズム継承の一例について―」(『日本近代文学会 北海道支部会報21』日本近代文学会北海道支部、二〇一八)
  • 千田洋幸『危機と表象 ポップカルチャーが災厄に遭遇するとき』(おうふう、二〇一八)
  • 柳瀬善治「サブカルチャー批評の現在と未来――三・一一以後のサブカルチャー批評は何を表象すべきなのか」(押野武志編『日本サブカルチャーを読む』北海道大学出版会、二〇一五)
  • 「Web小説はどこから来てどこへ行くのか」(『このWeb小説がすごい!』宝島社、二〇一五)