震災の語られ方を考える―東日本大震災と現代日本文学―

はじめまして。名古屋大学文学研究科に所属している加島正浩と申します。

東日本大震災以後の現代日本文学」を主な研究テーマにしています。

東日本大震災はこれまで日本が(あるいは世界が)経験したことのない「未曾有」の震災であったということがたびたびいわれます。では日本が経験したことのない震災であるならば、当然それを語る言葉も震災以前には存在しなかったと考える必要があるのではないでしょうか。

群像や文学界、新潮といった有名な文芸雑誌に原稿料をもらって小説や詩や戯曲を寄稿する「プロ」の作家が、震災をどのように捉え、位置づけ、理解しようとしたのか。
震災の影響を直接に被り、生活を変えざるを得なくなってしまった人々が自らの体験をどのように捉え、乗り越え、語り残そうとしてきたのか。

本を刊行することで収入を得るいわゆる「プロ」の作家のみならず、自分(たち)でお金を出し合って刊行した同人誌や自費出版の本も研究の対象として、東日本大震災がどのように描かれてきたのか、語られてきたのか。

そして非常に複雑な問題である東日本大震災をどのように考えていけばよいのか、また何を考える必要があるのか。そのようなことを考えています。

導入

「震災」とはなにか

そもそも「震災」とはいったい何なのでしょうか。広辞苑第五版を引けば「地震の災害」という答えが返ってきます。では「災害」とは何なのでしょう。

例えば誰も住んでおらず、人が住むための開拓もなされていない無人島に地震による津波が襲ってきたとします。津波は木々をなぎ倒し、島のあちこちを土砂で覆いました。もちろんそれによって自然環境には影響があり、それは自然の驚異を示す結果にはなるでしょう。

しかしこれは「災害」ではありません。人が住み、生活が始まり、社会が誕生して、その社会やそこに住む人々に被害が及ぶとき初めて、それは「災害」と呼ばれるようになるのです。広辞苑第五版でも「災害」は「異常な自然現象や人為的原因によって、人間の社会生活や人命に受ける被害」と説明されています。

では「災害」が社会に被害を与えたときに生じるものであるという点をおさえることで、何がわかってくるのでしょうか。それは個々の社会生活のあり方によって、災害による被害も変わってくるということです

たとえばAという地域とBという地域が津波による被害を受け、線路が流され、鉄道が不通になったとします。そしてAという地域は自家用車の保有率が高く、Bという地域は移動手段を鉄道に頼っている人々が多いと仮定します。

この場合津波による線路への被害が全く同じだったとしても、そこで生活する人々への影響が大きく異なってくることは理解していただけると思います。

つまり災害あるいは震災の被害を考えるときには、人々が住んでいる地域社会の様相によってそれぞれ異なっているということを念頭に置く必要があるのです。

東日本大震災ーアバウトな語り方の危険性

2011年3月11日に発生した東日本大震災は、宮城県牡鹿半島付近を震源地に、規模はマグニチュード9.0という、日本周辺で起こった地震としては、発生時点において観測史上最大の地震でした。

宮城県・福島県・茨城県・栃木県で震度6強以上を観測し、福島県・宮城県・岩手県を中心とした、東北地方から関東地方の太平洋沿岸部には巨大な津波が押し寄せ、大きな被害を及ぼし、多くの死傷者と行方不明者を出しました。

そして地震と津波の影響により、東京電力の福島第一原発が事故を起こし、放射性物質が拡散してしまいます。原発から半径20キロ圏内や、高い放射線量が確認された飯館村に居住していた人々には、避難指示が出て、住んでいた土地を離れなくてはならなくなります。

2019年4月現在では、除染が行われたこともあり、帰宅できる地域も増えてきてはいます。しかし、依然帰宅できない地域や、後述しますが山林の除染はできていないなどの理由から帰宅を見合わせる人たちもいます。

また津波で住居が流されるなどして、いまだ仮設住宅で暮らすことを余儀なくされている方々もいます。

簡単に東日本大震災が何かを説明いたしましたが、それだけでも被害が広範に及んでいることが理解いただけると思います。そのため「被災地」の現状は○○だ、という語り方ではフォローできない要素があるということをおさえる必要があります。

特に東北各県は面積が広大です。例えば福島県は会津・中通り・浜通りの三地域に大別されます。「福島の現在は○○だ」という語り方もアバウトなため、注意しなければならない場合があるということも、あわせてまず述べておきます。

「被災地」という言葉でどの地域の話をしようとしているのか、日本で3番目に大きな福島県のどの地域の話をしているのか、そのことを注意して聞いたり、読んだり、話したりする必要が時にはあるのです。

本論

「被災地」という言葉が見えなくしてしまうもの―木村友祐「イサの氾濫」

では、文学作品に基づきながら具体的に考えていきたいと思います。「被災地」という言葉がアバウトであるということは先に述べましたが、アバウトな言葉を使うことがどのような点で問題になることがあるのでしょうか。

結論を先に述べれば、「被災地」というアバウトな言葉が見えなくしてしまうものがあるということです。「被災地」という言葉を用いたとき、多くの人は地震や津波などの被害が甚大であった福島県・宮城県・岩手県の三県を思い浮かべることと思います。

そのため「被災地」という言葉が使われるときには、一般的に想起させる地域(福島県・宮城県・岩手県)以外の地域での被害が含められていないことがあります

木村友祐の「イサの氾濫」(『すばる』2011年12月号、『イサの氾濫』未來社、2016年3月)はその点を突いています。

「イサの氾濫」は青森県の八戸出身である将司を視点人物に南部方言での会話を交えて描かれ、将司が東京になじめず40歳にして仕事を辞めて、津波の被害を受けた故郷の八戸に帰省したところから話が展開していきます。
ここではまず将司が八戸をどのように捉えていたかを確認したいと思います。

でも、それでも結局、八戸では震災による死者はひとりだった。被災地には変わりないが、街が壊滅状態となって何千人も犠牲者がでたようなほかの場所にくらべたら、被害は軽微である。(略)被災はしたけれど 、ほかとくらべたら被害は軽いです、どうもすいません。と、妙に卑屈な気持ちになっている自分がいた。
 このねじれた感情は一体なんなのかと思うのだが、今、こうやって目の前に津波の傷跡を突きつけられても、根本的な戸惑いは変わらなかった。ぽりぽり頭をかくイメージで、心のなかで将司はつぶやく。  
 ……でもさぁ、これだけなんだよね

木村友祐『イサの氾濫』、36項

八戸も被災地には変わりないが震災による死者はひとりで、ほかの場所に比べたら被害は軽微であったと将司には捉えられます。

「被災地」には変わりないが、「被災地」といえば何千人も犠牲者がでたような場所を指すのであって、被災はしたけれど被害は軽い八戸は、そこの出身者である将司にすら「どうもすいません」という卑屈な気持ちに捉えられてしまいます。

つまり「被災地」という言葉が示すイメージとは異なり、被害が軽微であった地域は「被災地」とはみなされず、生じた被害が軽視されることが起こりえます。そうなったとき、何が見えなくなってしまうのでしょうか。震災によって亡くなったひとりの死者です。

「八戸は、結局ひとりしか死んでねがべ。岩手だの宮城だの、どんだげ死んだど思ってっきゃ。それなのさ(に)、そったふうに被災者ヅラすんなよ」(略)
「そのひとりってな」と、角次郎が口を開いた。
「ハァ(もう)七十すぎだ漁師の、カガ(妻)だったづな。聞いだが?」
「いや・・・・・・」
「新聞さ書いでだ話だば、その夫婦は地震のどぎ、港の近ぐの浜小屋さいだづ。地震があって、津波がくるってんで、旦那はカガさ『早ぐ逃げろ』って言って、船で沖さ避難したづな。そんどぎはカガは、ちゃんと車運転して、家さ帰って行ったのよ。
「・・・・・・」
「してもな(でも)、旦那が心配だったんだべ。そのカガ、まだ(また)港さもどってきたづ。携帯で『家は無事だった』って、わざわざ伝えでな。浜小屋さもどってるって言うがら、旦那は慌でで、すぐにそっから離れるように言ったのよ。んでも、間に合わながった。一気に津波がきて、カガ、車さ乗ったまま、波さのまれでまった」
「・・・・・・」
「カガは六十代後半が。記事の印象だば、ふたりは長年連れ添った、仲のいい夫婦おんたった(のようだった)。だすけ、おらは思うのよ。カガ、いっつも旦那どふたりでいるのがあだりまえだったがら、旦那の帰りば待づつもりで、港さもどってまった(しまつた)んだべってな。そやって、津波さのまれだ。・・・・・・それが、その『ひとり』せ」

木村友祐『イサの氾濫』、60-61頁

長く引用しましたが、将司には亡くなった「ひとり」が大きな被害の影に隠れて見えなくなっています
そのことを将司の叔父である角次郎は、亡くなったカガがどのような人物であったか、そしてどのような亡くなり方をしたのかを丁寧に語ることで将司に教えます。

さらに、角次郎は引用文の後で、「数でとらえれば、見えなぐなるもんだ。旦那は、新聞さ、『悔しい』って喋ってらった。おそらぐ、カガの気持ぢが手にとるようにわがってだんだべ。それでも、『自分だげでなぐ、つらい思いをした人はたくさんいる』って言うわげよ。その孤独は一体どったらもんなんだが・・・・・・」(62頁)とつづけます。

文学はこのように「被災地」という括りのなかからは漏れてしまった被害や、多くのつらい思いのなかに埋もれてしまったひとつひとつの苦痛や孤独を、丁寧に描くことを可能にします

震災後に人々にどのようなことが起こり、どのような苦しみや孤独や思いを抱かせたのか。そのことを文学は読み手に教え、あたかも自分がその経験をしたかのような体験をさせます

優れた作家が想像力を用いて震災時に何が起こったのかを、そして何が起こり続けているのかを描いた文学を分析し、震災後に自らの体験を記した文学やエッセイなどを広く収集することで、大きな視点からはこぼれ落ちる震災後を生きる人々の思いや、そこにある問題を浮き上がらせることができます

福島・宮城・岩手で暮らしていた人、暮らし続けている人や地域のことはもちろんのこと、「イサの氾濫」が描いた八戸のことや、震災直後の東京での混乱や、放射能被害を恐れて遠くに避難している人々のことなども文学は描いてきました。

それぞれの場所で起こっている問題は異なります。そして時の経過とともに問題は変わっていきます

震災後から様々な視点で、様々な時期に書かれてきた文学を分析することで、何が問題になってきたのか、そして今何を問題にして語るべきなのかということを、私は考えています。

放射能被害の問題は単純な言葉では語れない

東日本大震災の影響は広範にわたるため、ここですべてに触れることはできません。特に福島第一原発の事故は現在もまだ収束していないため、簡単に述べることはできません。

そのためここでは、なぜ簡単に述べることができないのかということを、SNSなどでも散見される、福島県は「安全」だあるいは「危険」だという言い方は、アバウトなのではないかという視点から、今回は福島に住んでいる方々のエッセイをもとに考えてみたいと思います。

まず、1章で述べた「福島」という言い方は大きすぎるのではないかということから確認していきます。五十嵐進さんという福島県喜多方市生まれで、福島県立高校で国語の先生を38年間務められた後、田畑を耕し晴耕雨読日々を送っていらっしゃる方の文章をみてみます。

二本松市の米から食の暫定基準値500ベクレル/Kgと同数値のセシウムが検出された。(略)その検出の報道は、新聞によっては「福島県産米から検出」という見出しだったので私などはなんと心ない報道かとなさけなくなった。とうとう、あるいは、ついに、という思いと同時に、そう思った。日本で3番目に広い面積をもち、気候も異なる三つの地域をもつ福島県である。県産米とひとくくりにできるはずがないのに、との思いからである。

五十嵐進『雪を耕す―フクシマを生きる』影書房、2014年12月、28-29頁

二本松市の米は確かに「福島県産米」ではありますが、その言い方では福島県全域で高い数値のセシウムが検出されたかのような印象を与えます。福島県は日本で3番目に広い面積をもつ県です。居住することに問題のない地域も多くあります。
放射能被害は同じ福島県内であっても地域によって差が生じているのです。

そして時間の経過や除染が行われることによって、検出される数値も変わってくるため、示されている数値がいつ時点のものなのかも丁寧に確認する必要があります

まず大前提として福島県のどの地域で、またどの時期に計測された数値なのかを細かく読み取る必要があることをおさえてください。

そのうえで、(「イサの氾濫」の角次郎が述べていたように)数値だけでは語れない問題があることをみていきます。

南相馬市という福島第一原発から30キロ程度離れた地域で刊行され、震災直後には会員全員が避難生活を経験したという南相馬市短歌会あんだんてが刊行する『あんだんて』という雑誌から、2017年に書かれた根本洋子さんのエッセイをみてみます。

原発事故は収束していない。現在進行形のまま、帰還困難区域を除く町村で、避難解除がはじまった。私の故郷浪江町でもそうである。困難区域は、未だ除染はされてない。そこから風が吹きおろし、川の水が流れてくるのである。住めますよと定められた区域を除染した汚染物は、黒いフレコンバッグに入れられ、黒い袋は山積みされ、田畑に累々と並べられている。こんなところへは、いくら解除されたからといっても、帰りたい気持ちにはなれない。
あの忌まわしい原発事故から、六年も過ぎ七年目に入ってさえこれである。

根本洋子「ぬけない楔」『あんだんて』第9集、2017年6月、8-9頁

数値上は「住めますよ」と言われたとしても、未だ住めない地域からは風が吹いてくるし、水も流れてくる。除染された汚染物もただ黒い袋に入れられて、並べられているだけの状態です。

「住めますよ」と言われた地域であっても、このような状態にある地域が現在に至るまで存在するということも事実です。しかしこのことを語るときには慎重にならなくてはなりません。「風評被害」という問題があるからです。

南相馬と同じく浜通りという地域に位置する、福島第一原発からは50キロ程度離れたいわき市で刊行されている『浜通り』という俳誌(俳句の雑誌)に載せられた島田千晶子さんの文章をみてみます

今年の県産米の全袋検査が始まった。放射性セシウムは、検出されなかった。県産の桃も問題はなかった。少しずつではあるが、線量も下っている。それでも風評被害は、少ないが完全にはなくなっていない。

島田千晶子「大震災から一年六ヶ月」『浜通り』146号(2012年11月)、15頁

検査で問題がみつからなかった食べ物や、あるいは居住可能とされた地域を「危険」だと簡単に言ってしまうことは、そこに住んで、その地域で取れた食べ物を食べている人の気持ちを傷つける風評「被害」になりえます

しかし、現在の科学が危険と断定できる疫学という方法では危険か安全かどうかを判断することが難しい「低線量被曝」という問題もあります。
(「低線量被曝について関心のある方は、中村征樹編『ポスト3・11の科学と政治』(ナカニシヤ出版、2013年1月)の第2章、調麻佐志「奪われるリアリティ――低線量被曝をめぐる科学/「科学」の使われ方」を読んでみてください。丁寧にわかりやすく書かれています。)

そして、根本洋子さんが仰っているような数値だけでは「わからない」問題もあります。
島田千晶子さんも先に引用した文章の前段で、「除染も全面やれるわけではなく、山林などはなおざりにされている」と、2012年の段階ですが、書かれています。

福島は居住できない「危険な」地域だという言い方は、アバウトすぎます。繰り返しになりますが、居住するのに問題のない地域も多く存在します。そして「危険」と単純に言うことは、福島に現在も住み続けて、これからも住んでいきたいと思う人々を傷つける表現にもなり得ます。

しかし一方では、居住できる「安全」な地域と語られる場所においても、「安全」とは断定できな要素があるために、不安に思う方々もいます。「安全」が強調されることで、その人たちが抱える不安が見えにくくなってしまうことには、注意する必要があります。

そして、最も難しいのは、そこに縁のある方や、住まれている方の考えが同じではないということです。つまり、「安全だ」と思って住んでいらっしゃる方もいれば、不安を覚えながら、それぞれに判断されている方もいるということです。福島に住んでいる人の考えはこうだと、単純に言うことはできません

だからこそ、放射能被害の問題をどのように語ればよいかという答えは簡単に出すことができません。そのためまずは、どのように語られているのかを調べています。なぜなら、どのように語られてきたかを知らないことには、どのように語ればよいかということも考えることができないからです。

そして調べたことをもとに、どのような語り方が対立し、衝突しているのかを明らかにしようとしています
もちろん対立を明らかにしたからといって、「放射能被害」の問題をどのように語ればよいかという問いにすぐに明確な答えが出せるわけではありません。

しかしそれを明らかにすることで、「福島の現状は○○だ」とか「安全だ」とか「危険だ」というアバウトで強い言葉を使うことが適切なのかどうかを、一度立ち止まって多くの人に考えてもらうことが可能になるのではないかと思っています。

何が語られているのかということだけではなく、どう語られているのかということにも着眼するのが、文学研究の方法です。

今回はエッセイを取り上げて説明いたしましたが、福島や放射能被害が「どのように」語られているのかを考えることは、たとえ新聞などの報道記事を分析のなかに取り入れたとしても、「文学研究」になるのではないかと考え、私は研究の対象としています。

もちろん文学研究といえば中学や高校の教科書や国語便覧に載っているような、評価の定まった「優れた」作家や文学作品を研究の対象とするのがスタンダードだともいえます。

有名ではない「アマチュア」の作品を取り上げることや、分析に報道記事を含めて、評価が定まっていない現在進行形の問題を扱うことが文学研究といえるのかということには、研究者のなかでも議論が分かれるところでもあります。

しかし、恥を忍んでとても大きいことを言えば異論が存在するということは、私の研究自体が現在の「文学研究」のあり方そのものと衝突しているといえます。そしてそれは、研究のあり方自体を問い直すきっかけになるかもしれないということです。
今はまだそのような域に達することは全く出来ていませんが、そのような研究ができるように頑張りたいところです。

終わりに ―「当事者」しか語ってはいけないのか?

ここまで読んでいただいた方のなかには、福島に住んでいるような震災の「当事者」の人しか発言をしてはいけないのではないかという印象をもしかすると抱いた方もいるかもしれません。それは明確に違うと申し上げておきます。

なぜかというと、それは結果として「当事者」の人たちのみに問題を押し付けてしまうからです。東日本大震災や原発事故の問題は規模が大きく複雑なため「当事者」の人たちのみで解決することはできません。

「被災地」や福島のみの問題とすることは、現在も引き続く東日本大震災や原発事故の問題を小さく見積もっているといわざるを得ません。そのために狭い括りである「当事者」以外の人が関わり、発言することを封じ込めてはならないのです。

そして「当事者」以外の人が発言しなくなるということは、「当事者」以外の人が震災に関心を失くすことにもつながります

「記憶の風化」ということが言われ続けています。
しかし東日本大震災は「記憶」になった部分と、仮設住宅などに避難し続けている方々がいることや、放射能被害の問題など震災発生時から引き続いている現在進行形の問題も多くあります。東日本大震災に関わる人を減らすべきではないと考えます

そこで、人々が震災にどのように関わっていけばよいのかを文学研究によって考えようとするのが、私の研究の中身です。今回ご紹介した内容は考えていることの一部ではありますが、東日本大震災は一言で語ることができる問題ではないということはご理解いただけたのではないかと思います。

今回ご紹介した内容以外にも、津波で亡くなって、自ら話すことができなくなった死者のことをどのように考えるかということ。事故をもたらした東京電力や、原発を推進してきた日本政府、そしてその政府を支持してきた「わたしたち」をどのように考えるかという問題もあります。

いずれも一言で語ることはできません。そして一言で語ることができないということは、ひとりの人間が語りつくすことができないということでもあります。私の研究にも必ず考察が及んでいない盲点があるはずです。

ある研究の盲点を指摘し、それを更新していくことが人文学研究の営みです。ただし研究のみならず、東日本大震災においても複数の人間で考えを更新し、前に進めていく必要があります

ぜひ震災への関心を失わず(あるいは関心を持って)考え続けていただきたいと思います。それを促す一助に私の研究が貢献できれば、とても嬉しいです。
それを望んで、私も努力し続けたいと思います。

東日本大震災と文学の関係を考えることができる論文・文献リスト(一例)

・木村朗子『震災後文学論』青土社、2013年11年

・鈴木友梨江「川上弘美「神様」から「神様2011」へ―〈三・一一〉後の言葉の変容と作品世界の変容」『日本大学大学院国文学専攻論集』13巻、2016年10月

・加島正浩「『非当事者』にできること ―東日本大震災以後の文学にみる被災地と東京の関係」『JunCture』8巻、2017年3月

・ミツヨ・ワダ・マルシアーノほか編『〈ポスト3.11〉メディア言説再考』法政大学出版局、2019年2月

・坪井秀人ほか編『世界のなかのポスト3.11―ヨーロッパと日本の対話』新曜社、2019年3月