カタル危機から考える平和共生の実現 ―湾岸地域研究入門―

はじめまして、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科の吉田智聡(ヨシダトモアキ)と申します。
その名の通り、アジア・アフリカを対象に文系・理系の垣根を超えた研究分野「地域研究」をしている大学院の学生です。
私自身は中東地域の政治問題を対象に、国際関係論という学問を用いて地域研究をしています。

どうして中東を研究しているのですか」とよく質問されますが、そのきっかけは漫画というささいなものでした。小学生の時に流行った漫画「遊戯王」の影響で、中東にあこがれを抱きました。

さらに高校に入るころに「アラブの春」が起き、多くの戦争犯罪・人道危機が生じました。その時に「人はなぜ争うのか・平和に生きることはできないのか」という疑問を抱き、大阪大学外国語学部(旧大阪外国語大学)アラビア語専攻に進学しました。アラビア語専攻では、中東地域や国際的に重要な言語であるアラビア語を学びながら、イエメンの戦争問題に取り組んでいました。

現在の研究はカタル(カタール)で2017年に起きた断交事件「カタル危機」による、カタルの安全保障基盤の変化と、それによりもたらされた湾岸域内関係の変容についての分析です。これでは何を言っているか分かりにくいですね。

それでは研究の出発点である「アラブの春」について説明して、カタルや湾岸とはどういう国・地域か、そしてカタル危機について話しましょう。

「アラブの春」について

「アラブの春」とは何か

「アラブの春」についてご存知でしょうか。2010年末にチュニジアで発生した反政府運動が、エジプトなど様々なアラブ地域に飛び火した一連の現象のことです。この反政府運動では反汚職や民主化、経済改革などが叫ばれたため、欧米社会は反政府運動を好意的にとらえ、「春」であると表現しました。

欧米社会は反政府勢力を支援し、腐敗した政府を打倒する手助けをしました。そしてチュニジア、エジプト、リビア、イエメンでは政権が打倒され、反政府勢力が新たに政権の座につくことになりました。

「アラブの春」は「春」だったのか?

民衆が腐敗した政府を倒し、自らの政権を作った革命「アラブの春」。革命後実権を掌握したのが、イスラーム主義の政党や勢力でした。イスラーム主義とは、「イスラームの価値観を政治など公的な領域に実現しようとする」考え方であるとしておきましょう。チュニジアやエジプトでは、このイスラーム主義の政党が選挙で勝ちました。

ところがイスラーム主義政権は、政権運営上の大きな問題に直面しました。それは経済の立て直しです。チュニジアでは35%の失業率が改善されず、エジプトでは物価上昇に歯止めをかけることができませんでした。徐々にイスラーム主義政権への不満が高まり、暴動が発生しました。エジプトでは政権が転覆され、新しいイスラーム主義ではない政権が誕生しました。

その他の事例はより厳しいものでした。リビアでは政権が崩壊してから新しい政権が成立せず、7年以上内戦が続いています。イエメンでも2014年に政権が転覆されて以降戦争が続いています。シリアは政権が転覆されないまま、現在まで内戦が続いています。このように、「アラブの春」は当初期待された「春」と呼べるものにはなりませんでした。

「アラブの春」の意義

それでは「アラブの春」にはどんな意義があったのでしょうか。この答えの一つは、「中東の国際関係が大きく変化した」ことです。「アラブの春」で政権が転覆されたエジプトやリビアは、実は中東の大国でした。従来の大国が衰退することで、新たな勢力が台頭してきました。それが湾岸地域であり、その中でも突出した国がカタルでした。

湾岸地域について

カタルとはどういう国か

カタルはアラビア半島の東部に位置する、秋田県ほどの面積の小さな王国です。人口は200万人ほどいますが、その内のカタル人は30万人ほどで、残りの170万人はパキスタン、インドなどの外国からの労働者です。言語はアラビア語、首都はドーハで、2022年にFIFAワールドカップが開催されます。

カタルは豊富な天然資源に恵まれ、天然ガスと石油により莫大な富を得ています。天然ガスと石油は国家歳入の70%を占め、日本はカタル産の天然ガスと石油を大量に輸入しています。具体的には天然ガスは3位、石油は4位の供給先ですので、みなさんが使っている電気やガスには恐らくカタル産の資源が使われています。

カタルのGDPは世界53位ですが、1人あたりのGDPは世界6位になります。さらにカタルの1人あたり購買力平価は世界1位であり、1人あたりのGDPが世界25位の日本とは経済構造がかなり異なると言えるでしょう。

カタルは「アラブの春」で、反政府勢力を支援しました。その際には天然資源による富と、報道局アル=ジャズィーラが用いられました。我々がテレビで見た「アラブの春」の映像の多くは、アル=ジャズィーラが提供したものです。こうした反政府勢力支援に反対したのが、後のカタル危機で断交した国々になるので、伏線として覚えておいてください。

湾岸とはどういう地域か

カタルについてお話しましたので、次はカタルが属している「湾岸」という地域についてお話しましょう。
湾岸とはアラビア半島の東側、ペルシャ湾を囲む地域を指します。国名としてはイラン、イラク、サウディアラビア(サウジアラビア)、クウェート、カタル、UAE(アラブ首長国連邦)、バハレーン(バーレーン)、オマーンが該当します。

この地域の特徴はやはり石油資源を背景とした経済成長を遂げている国が多いことでしょう。飛行機のトランジットなどでドバイやドーハに降りたことがある方は、その広大な空港や豪奢な店に驚かれたでしょう。

一方で経済成長という光の面のみならず、争いが絶えないことは湾岸や中東の共通した特徴です。湾岸ではサウディアラビアとイランの対立は有名です。

「サウディアラビアとイランの対立」というのは、後にお話しする私の研究内容とも深く関与しています。地図を見て頂くとお分かりいただけると思いますが、サウディアラビアとイランは湾岸の中で突出して大きな国です。軍事力も両国が突出しており、サウディアラビアのGDPに占める軍事費の割合は世界1位です。

イランは「アラブの春」以前から各国で少数派として暮らすシーア派を政治的に支援してきました。特に湾岸のバハレーンやサウディアラビアでは反政府勢力としてのシーア派を支援してきた経緯があり、それがバハレーンやサウディアラビアとの対立を生んできました。

まるで冷戦時代のような話ですが、湾岸の国際関係は常に緊張をはらんだものであり続けてきました。そうした湾岸地域の国際関係の摩擦の一つが、私の研究主題であるカタル危機です。

研究内容紹介:カタル危機の発生と展開

ここまで、湾岸諸国と「アラブの春」を巡って対立したカタルと、シーア派支援を巡って対立したイランを見てきました。カタルの湾岸諸国との対立が表面化したのが、今からお話しするカタル危機です。

カタル危機の発生

「アラブの春」以降湾岸諸国と対立関係にあったカタルは、2017年6月にサウディアラビアや、UAE、バハレーンといった周辺の湾岸諸国から断交されました。この断交はサウディアラビアによる国境封鎖や、近隣諸国によるカタル航空の領空通過拒否を含んでいました。

食料の90%を輸入に依存するカタルにとって、国境封鎖はサウディアラビアからの陸路による食糧輸入が不可能になる事を意味しています。これは食糧危機を招くと騒がれ、カタルのスーパーマーケットでは買占め騒動が起きました。

またこの際に断交した側の国々はカタルに対して様々な要求をしました。その中にはカタルにとって到底飲める内容ではない要求が含まれていました。到底飲める内容ではない要求と国家の安全保障の危機、この現実に直面したカタルはその後から現在に至るまでどのような政策を実施したのでしょうか。

そしてカタルの政策は、断交事件以前と以降でどのような差が見られるのでしょうか。またその政策が、湾岸地域の域内関係にどのような作用を及ぼしているのでしょうか。長くなりましたが、これが私が研究していることになります。

カタル危機後のカタルの政策

それではカタル危機に直面したカタルが実施してきた政策をお話ししましょう。
結論から言うと、カタルは断交した側の国々からの要求を無視して、対決を選択しました。安全保障の危機にあって、なぜ対決が可能だったのでしょうか。それは、トルコやイランといった国がこの事態にカタルの味方をしたからです。

トルコやイランは食糧危機に陥りかけたカタルに対して、空輸を実施して援助しました。そしてカタルはイランとの外交関係を回復させ、イランとの接近を図っています。そしてカタルはイギリスやフランスから戦闘機を大量購入して、カタル軍の強化を推進しています。さらにカタルは自国の米軍基地を拡大させて、サウディアラビアとイラン双方への牽制を行っています。

次に湾岸域内関係の変容についてお話ししましょう。まず特筆すべきことは、地域機構「湾岸協力理事会」が機能不全に陥ったことです。これはASEANのような地域協力を推進する組織で、湾岸の6カ国(カタル、サウディアラビア、UAE、バハレーン、オマーン、クウェート)が加盟しています。

この組織は年に2度全加盟国の首脳が集まる会議を主催するのですが、2017年の首脳会議は途中で失敗しました。これは湾岸協力理事会の加盟国の団結が崩れたことを象徴的に物語っています。またトルコ軍のカタル駐留が始まり、湾岸の軍事安全保障に対するトルコの本格的な関与が開始されました。

これらの事例を見ると、総論としては以下のような指摘ができるでしょう。
①外交面でトルコやイラン、アメリカといった地域内外のアクターとの関係を構築することで、カタルは脱サウディアラビア支配を図っている。

②安全保障面では様々な手段を用いて軍事力を高めており、カタルの仮想敵国対象はサウディアラビアのみならずイランをも想定している。

アクターとは、国際関係論の用語で、国際社会において行動する一つの単位を指します。国家が代表例ですが、他にも個人やNGO、国連などがアクターとして存在します。

カタル危機以降、カタルとサウディアラビアなどの断交状態は続いています。またカタルの情勢が安定していることからも、この事態は長期化すると予測されます。

研究の構成と研究上の発見

カタル危機を事例とする私の研究は、以下の三本柱で構成されています。

湾岸域内関係の変容に関する時代史の形成

関係の変容は、突如として起きるものではなく、徐々に進行していくことが多いです。しかし我々は「事件」に注目を奪われ、それまでにあった片鱗を見逃し、あたかも突発的にその事件が起きたかのように錯覚してしまいます。

湾岸諸国の関係は、1979年のイラン革命や2003年のイラク戦争などを機に、絶えず変化してきました。大小様々な関係の変容を長いスパンで考察することで、カタル危機が湾岸域内関係の変容に及ぼした影響を比較・検討できるようになります。

「アラブの春」以降のカタルの政策研究

「アラブの春」で勢力を拡大したのがカタルを筆頭とする湾岸諸国であるとお話ししました。その際に実施された政策のみならず、カタル危機に至るまでに実施されてきた様々な政策を情報収集する必要があります。それによって「突発的」と言われたカタル危機が実は「突発的」ではなく、漸次的な関係の変容によって生じていたことが明らかにできると考えています。

カタル危機以降の湾岸域内関係と安全保障環境

私の研究では、カタル危機以降の湾岸域内関係は、それまでとは大きく異なるものであると仮定しています。
その手がかりはトルコやイランといった、それまでとは異なるアクターがカタルとサウディアラビアの問題に関与するようになったことが挙げられます。カタル危機以降、湾岸域内関係は一層複雑化し、外部のアクターが関与するようになっています。

関係性の複雑化に伴って、安全保障環境も大きく変わっています。カタル危機以降、カタルは軍備拡張や外国の土地購入、国内の食糧生産拠点開発を進めています。カタルが危機によって自国の脆弱性を認識し、新たな政策を実施していると理解できる事例で、今後のカタルを予測する上でも重要です。

研究のアプローチ

この3つの問題に取り組む上で、私は3つの方法を用いてアプローチをしています。三つの方法とは、先行研究・情報分析・国際関係理論の援用です。

先行研究は、文字通りそれまでに他の研究者が行ってきた研究を学ぶことです。先行研究によって明らかにされてきたこと、先行研究では説明が不十分なことや明らかにされなかったことを理解することで、自身の研究をより良いものにしようとしています。

情報分析は先行研究を踏まえつつ、実際に得られているデータやニュースを、自身で再解釈をすることです。先行研究で説明されたことが実際に妥当な解釈であるか、他の情報と照らし合わせても納得し得るものかなどを検証します。この際に私オリジナルな解釈が生まれることもあり、情報分析は非常に重要なプロセスです。

国際関係理論の援用は、情報分析で生まれた解釈の妥当性を補う役割を果たします。理論とは数学の公式に似たもので、国際関係論では国家や個人の行動・国際社会の事象を説明するための道具として用いられます。

研究上の発見

3つの方法を通して得られた研究上の発見は数多いですが、以下の2つをご紹介します。

①サウディアラビア対イランという二項対立論の限界性
メディアなどで「サウディアラビアとイランの対立」という言葉をよく耳にします。しかし実際には、各国ごとの個別の対立に、サウディアラビアとイランの対立が被さっていることが多いと感じています。すなわち、対立は複層的構造です。複層的とは、複数の組織や国家、地域全体など様々な規模のアクターが関与することにより、事態が複雑化しているという意味です。

②平和共生に向けた課題の多さ
①で対立が複層的であることは説明しました。これは対立の解決には複数の要因を考慮しつつ、対立の解決方法を考案しなくてはならないことを意味しています。湾岸で言うと、王政支持者と改革主義者、スンナ派とシーア派、国家と国家などが例示されます。

果たして人間にこれらを考慮した対立の解決方法を見つけることができるのでしょうか。その答えは国際政治学者でも意見が分かれるのですが、私自身は可能であると信じています。

それは学者が好む思索や議論の結果ではありません、むしろ凡庸な人間としての祈りにも似た思いです。我々は愛や平和の希求といった、人類全てに共通する「何か」を持っているはずです。

その「何か」を思索して、「普遍な論理」と「地域固有の論理」を調和させた提案ができれば、きっと平和共生に向けて前進することができるはずです。湾岸から話が飛躍したと感じられるかもしれませんが、私は湾岸地域研究を通して、世界平和に貢献したいと考えています。

終わりに

今後の展開

今後はカタル危機がどのように進展するかを注意深く観察し続けます。そして「域内の国際関係がどのように変容したか」ということを結論付けます。また域内関係のみならず、中東地域の安全保障・経済の移り変わりにも視野を広げていきたいと思います。

そして研究者のみならず、様々な人達との交流を通して、平和共生に貢献できる人材になりたいと考えています。
平和共生の実現は研究者のみで実現できるものではなく、様々な人々が協働することで実現するものです。

中東やアラビア語について学ぶことができる大学・大学院の紹介

中東に興味を持たれている高校生や大学生の方に、大学・大学院をいくつかご紹介します。

東京大学文学部イスラム学研究室
東京外国語大学
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科
大阪大学外国語学部
九州大学大学院人文科学府イスラム文明史学研究室

上記以外にも様々な大学があるので、是非調べてみてください。

中東やイスラームについて学ぶための入門書

今回は日本語文献だけにしましたが、国際関係論も中東地域研究も英語は必須で、中東地域研究をするならアラビア語、ペルシア語、トルコ語のいずれかは読めるようになっておく必要があります。

小杉泰 (1994) 『イスラームとは何か:その宗教・社会・文化』講談社現代新書.
中村覚編 (2015) 『サウジアラビアを知るための63章』明石書店.
松本弘 (2015) 『アラブ諸国の民主化:2011年政変の課題』山川出版社.

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参考文献

今井宏平 (2017)『トルコ現代史』中公新書.
小杉泰 (2006) 『現代イスラーム世界論』名古屋大学出版会.
小杉泰 (2014) 『9.11以後のイスラーム政治』岩波書店.
桜井啓子 (2006) 『シーア派:台頭するイスラーム少数派』中公新書.
中西寛・石田淳・田所昌幸 (2013) 『国際政治学』有斐閣.
松本弘 (2015) 『アラブ諸国の民主化:2011年政変の課題』山川出版社.
京都大学地域研究統合情報センター共同研究プロジェクト:地域研究方法論研究会
[http://personal.cseas.kyoto-u.ac.jp/~yama/areastudies/astudies.html] 2018年12月1日閲覧.
Kamrava, Mehran (2018). Troubled Waters: Insecurity in the Persian Gulf. New York: Cornell University Press.
Roberts, David (2017). Qatar: securing the global ambitions of a city-state, London: Hurst Publishers.
Sailer, M., & Roll, S. (2017). Drei Szenarien zur Katar-Krise: zwischen Regime-Change, Konfliktbeilegung und Kaltem Krieg am Golf (SWP-Aktuell, 44/2017). Berlin: Stiftung Wissenschaft und Politik -SWP- Deutsches Institut für Internationale Politik und Sicherheit. [https://nbn-resolving.org/urn:nbn:de:0168-ssoar-53097-2]

筆者紹介

吉田智聡(ヨシダトモアキ)
1996年奈良県生。奈良市立一条高校外国語科、大阪大学外国語学部外国語学科アラビア語専攻卒、学士(言語・文化)。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程(五年一貫制)、グローバル地域研究専攻平和共生・生存基盤論講座学生。
専門は中東地域研究・国際関係論。研究対象地域は湾岸地域及びイエメン。カタル危機や第二次イエメン内戦など、湾岸地域やイエメンに関連した政治現象と平和共生をテーマとしている。