科学と常識の存在論 / デネット哲学研究の紹介

はじめまして、京都大学大学院の文学研究科で哲学を研究している大島祐輝と申します。

京都大学には哲学系でも様々な研究室がありますが、私が属しているのは哲学研究室です。私個人としては現代のいわゆる分析哲学を研究しています。

哲学に興味を持ったきっかけはいろいろあるのですが、思い出す限りで一番強いものは京極夏彦という作家の小説で「唯心論」、世界に存在するのは私の心だけで他の人やものは全てまぼろしであるという考え方を知ったことでしょうか。

以下で紹介する「存在論」という研究テーマもそうしたきっかけからたどり着いたものと言えるかもしれません。

イントロダクション

「科学」と「常識」の関係

簡単に言って、私が哲学を研究する上での関心は「科学」と「常識」の間の関係にあります。

例えば脳を神経細胞の集まりとして捉え、思考活動をそれら脳神経の相互作用の集積だと捉える認知科学と、私たちが普段「心」や「意識」といった仕方で捉える自己や他者の思考についての考え方の間には大きな隔たりがあります。

他にも物理的な対象を素粒子の集まりと見る物理学と、それを例えば机とかスマートフォンのような私たちが日常の中で対象として扱う「物体」として見る考え方も全く違うもののように思われます。

なぜなら単に神経細胞の働きから心が生まれるとか、素粒子が集まって机ができるという風に簡単に済ませてしまうには、両者の性質や振る舞いはあまりにもかけ離れているからです。

さて、そうなると「科学」と「常識」のどちらが正しいということになるのでしょうか。普通に考えれば、厳密な学問である科学の方が正しいように思われます。

すると私たちが普段用いている常識的な考え方は修正されなければならないものなのでしょうか。さらにそうなると常識的な考え方の対象、先ほど挙げた心、意識、机、スマートフォンなどは「存在しない」ということになるのでしょうか

以上が私の問題意識です。

 

研究背景 / ダニエル・デネットの哲学

意識の進化論

こうした問題に対して一定の答えを提供してくれる哲学者にダニエル・デネット(1942〜)という人がいます。

彼は進化論をはじめとする生物学や認知科学、計算機科学や情報科学といった様々な分野の広範な知識をもとに、意識や倫理、宗教などについての哲学を行なっています。

こう書くとややイロモノといった感じですが、実際のところはハーバード大学でアメリカ哲学史上の大物の一人、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインに指導を受けたりしたバリバリの(?)分析哲学者です。

デネットは私たちの意識は進化のプロセスの中で獲得された、脳神経系が持つ物理的な能力だと主張します。つまり心が魂といった物理的でない別種の存在だという主張を否定するのです。

ダーウィンが提示した進化論という世界観において、生物が持つ全ての能力は単純なものから複雑なものへと進化していきます。人間の心や意識もまた、そうした進化の過程の中で単純な感覚などの能力が複雑になった結果生まれたものです。

この進化のプロセスは連続的なもので、ある瞬間に何の前触れもなく突然特殊な能力に目覚めるということはありません。

それゆえにアダムとイブが知恵の実をかじった途端に意識を持つようになったとか、モノリスに触れた猿が突然知性に目覚めたということはありえないのです。

このことは意識などの高等な能力がより単純な神経細胞の活動などに「還元」できる、つまりそうした下位の構造によって説明されることができるということを意味します。

そうした還元の具体的なものとして、デネットは脳が意識を持つというのがどういうことなのかということを説明する様々なモデルを提示しています。

こうした理論とモデルの構築によってデネットは人間の心が特殊で非自然的なものではないということを主張しているのです。

デネット哲学にまつわる議論

このような主張に対して様々な意見が提示されています。ここではデネットが頻繁に反論する二つのものを紹介しましょう。

クオリア論

一つ目は「クオリア論」と呼ばれるものです。

これをわかりやすくする思考実験(頭の中でする実験のことです)にトマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどのようなことか?」というものがあります。

これは私たち人間がコウモリの生態や解剖学的な情報をいくら集めたとしても、例えば超音波で周囲を認識するコウモリ「として」世界を感覚することはできないだろうという主張です。

こうした感覚の主観的で科学的に説明できない側面を指してクオリアと呼びます。ネーゲルは自然科学から意識を説明しようとするデネットなど物理主義者がこうしたクオリアという側面を見逃していると主張するのです。

消去的唯物論

二つ目は「消去的唯物論」と呼ばれるもので、ポール・チャーチランドという人が提唱しています。

これは簡単にいえば脳神経科学が将来もっと発展すればいま私たちが日常的に用いている「心」や「意識」といった言葉や理論、「民間心理学」は不要になるだろうという主張です。

なぜなら脳神経科学の言葉、つまり脳の神経の振る舞いの記述によって私たちが知りたいと思う人間の振る舞いの全てが説明できるようになるからです。

これは先ほど述べた「還元」という考え方を究極まで突き詰めたもので、デネットも同意しそうなものですが彼曰くそうはならないようです。このことの詳細はのちに見ていくことにしましょう。

クオリア論 vs 唯物論

二つの立場の対立

ここまででデネットの基本的な主張と、それに関連する二種類の考え方を紹介しました。まずは後者二つの対立を軸に考えていくことにします。

「クオリア論」においては意識に現れる感覚は物理的なものではない、すなわち神経科学などによる分析、還元を許さないということになります。それゆえにそこで考えられる人間の心や意識は非物理的なもので、対象として実在することになります。

こうした立場はさらに広く捉えて、私たちの意識に現れるものは物理的なものではないという主張、すなわちデカルト的な心身二元論だと考えることができます。

反対に「消去的唯物論」では意識は完全に物理的なもので自然科学によって記述可能なものと捉えられます。それどころかそうした対象は将来的には理論ごと消去されることになるのです。

この二つの立場は人間の心についての常識的な考え方(「民間心理学」)の地位とその対象が実在するかどうかについて鋭く対立しています。これが「心の哲学」と呼ばれる分野の主要な問題の一つです。

デネットの見解

こうした問題についてデネットはどう考えるのでしょうか。

結論からいえば、彼はどちらの立場もとりません。

  • クオリア論批判

第一に彼は意識が非自然的なものであることを認めません。先ほど述べたようにデネットは意識を進化のプロセスから生み出された自然的なものだと考えるからです。

そして彼は自然科学では説明できないクオリアの存在を認めません。ネーゲルに対する反論としては、「コウモリであるとはどのようなことか?」という思考実験が論理的な循環を犯しているという指摘があります。

すなわちクオリアという科学では解明できない主観的な要素を前提しているから、コウモリであるとはどのようなことかが想像できないという結論が導かれ、そこからクオリアの存在が帰結しているということです。

このことについてデネットはもっと想像力を強化してデータを集めればコウモリであるとはどのようなことかを想像することは可能だと述べます。

  • 消去的唯物論批判

クオリア論を否定するからといってデネットは消去的唯物論を受け入れるわけではありません。彼は「民間心理学」の有用性を強調します。

人間の振る舞いを「意識」や「自由意志」といった言葉で捉えることは、それが将来どうなるのかを予想する上で非常に役に立ちます

例えばチェスを指すプログラムと対局している状況を想像してみてください。チェスプログラムが次にどの手を指すか予想するなら、「彼」が状況をどう「意識」していて、どんな手が最善だと「考え」ているのかを観察します。

消去的唯物論が主張するようにそうした語彙が存在しなくなったらどうでしょうか。チェスプログラムの振る舞いをプログラムの構文を1行ずつ読んで解釈することで予想しなければならなくなるでしょう。そんなことをしていたら時間切れでチェスに負けてしまいます。

このことは人間の振る舞いを予想する際にも同様に成り立ちます。すなわち、他者の振る舞いを予想するために神経科学を用いて脳神経の状態をいちいち追っていては重要な判断が間に合わなくなるのです。

それゆえにいくら神経科学が発達したからといって民間心理学を消去してしまうべきではありません

またこのような有用性を基礎とした視点は意識だけにとどまらず常識的な世界観の対象全体について有効です。

例えば机についても素粒子の集まりとして観察し、力を加えた際の様子を予想していては日常生活が成り立ちません。またスマートフォンについてもそれぞれのパーツの機能を考えながらでは操作に時間がかかりすぎるでしょう。

それゆえに机は机として、スマートフォンをスマートフォンとしてみる視点は有用なので消去されるべきものではないのです。

結局どういう立場なのか? – 存在論の問題

こうして二つの立場を否定したデネットですが、結局のところ意識などの常識的な考え方の対象は存在すると考えているのかどうかについては明確ではありません

彼はいくつかの論文で意識、机、スマートフォンといった日常的な考え方の対象を実在のものと扱い、そうした自身の立場を「弱い実在論」と呼んでいます。しかしその内実があいまいだと指摘している人もいます。

またデネット自身が、「何が存在するのか?」「存在するとはどういうことか?」といういわゆる存在論という話題に関してあまり立ち入らないようにしているという事情もあって、その辺りを分析するのはかなり難しくなっています。

ここまでで見たデネットの意識の進化についての考え方を素直に解釈すると、彼は道具主義者です。

つまり存在するのは物理的なものだけで、例えば意識などは対象の振る舞いの予想を簡単にするために人間が作り出した理論的な道具でしかない(つまり実在するわけではない)と考えているように見えます。

こうした解釈と彼自身が自分を実在論者、つまりこうした対象は実在するという立場を取っていると述べることの間にはかなり隔たりがあるように思われます。

この点をどう考えるのかというのが私のデネット解釈における問題意識です。そしてこれは先ほど述べた私の研究の全般的な動機、「科学」と「常識」の関係にもつながる問題です。

 

研究内容 / デネットの存在論の解釈

以上で述べた私の研究における問題意識を詳しく書くと「デネットは存在論についてどう考えていると解釈できるのか?」「彼の進化論に関する還元主義(例えば意識という作用が脳神経の働きから説明できるという考え方)と実在論(反対に意識はそれ自体として存在しているという見方)は両立するのか?」という感じになります。

先行研究の分析 – 実在論 vs 道具主義

この問題について考えるに際して、様々な先行研究が存在します。ここではその中から二つほどを簡単に取り上げてみたいと思います。

実在論的解釈

経済学の哲学や科学哲学などを扱うダン・ロスはデネットの主張をもう少し実在論よりに解釈すべきだと述べています。

ロスはもしデネットが道具主義者なら、彼の意識についての自然科学の立場からの分析はあまり意味のないものになってしまうだろうと言います。

なぜなら道具主義においてなされた説明は単に理論として矛盾がないというだけのもので、実在する世界についての記述ではないからです。

そうした点からロスは「熱帯雨林実在論」(変な名前ですが)というある種の多元論的な考え方、つまり意識や机といった高次の対象も物理学において扱われる低次の対象と同じように実在するという立場を取るのです。

道具主義的解釈

反対にAIに関する哲学など行っていたジョン・ハーグランドは意識などの高次の対象は実在しないと述べます。

例えば意識の場合なら存在するのは個々の脳神経であって、意識はそれを要素として構成されたパターンに過ぎません。この立場は先ほど述べた道具主義と概ね一致すると言えるでしょう。

つまり意識などの高次のパターンは私たちが実在する物質の配列から読み取ったパターンであり、実在するものではないという立場です。

二つの解釈の検討

これらの解釈はデネットの立場を元にしたものですが、どちらもデネットの意図を完全に満たしているとは言えません。

  • 実在論解釈の問題

まずロスの立場について、デネットは意識など日常的な思考の対象を物理学の対象に対していくぶんか簡略化されたものとして考えています

先ほどのチェスプログラムの例でも、プログラムの「思考」はプログラムの構文自体よりも簡略化、抽象化されているがゆえに予想にかかる時間を節約できたのです。

だからロスの言うように物理的な対象とこうした意識などが同様に存在していると主張するのは難しいように思います。これらはある意味で抽象的なものであり、物理的なものはそれらよりは具体的です。

また多元論的な立場を受け入れて意識を物理的なものとは違った実在物だとしてしまうと、意識が進化のプロセスの中で獲得された物理的なものだという主張が成り立たなくなります。

この観点はデネットの哲学の中でも重要なものの一つなので蔑ろにすることはできないでしょう。そうした意味でロスの立場はデネットの解釈としては不十分だと言えます。

  • 道具主義解釈の問題

今度はハーグランドの立場について、こちらは確かに進化についてのデネットの還元主義的な見解をよく反映していると言えるでしょう。

意識が脳神経の配列から読み出されたパターンなら、この能力を進化のプロセスから説明することが可能です。なぜなら意識は結局は脳神経の働きへと還元できてしまうからです。

そしてこの立場では意識などは説明を簡単にするための理論的な道具であると言えます。しかし先ほどロスの立場を紹介する際に述べたように、このような道具主義には問題があります。

またデネット自身も自分の立場は道具主義ではないと述べています。その点は彼が意識など常識的な思考の対象を「リアルパターン」と呼んでいる論文からも読み取れます。

確かに意識はパターンですが、それは「実在する」パターンなのです。デネットはその根拠として意識などを用いた理論が対象の振る舞いの予想において実際に役に立っているということを挙げ、対象の実在を主張するためにはそれで十分だと述べています。

もし仮に存在しないものについて予測を立ててそれが偶然うまくいったとしても、それはある種の奇跡です。私たちの意識に関する理論は奇跡によって成り立っているものなのでしょうか。デネットはそれは違う、この理論にはきちんとした根拠(対象の実在)があると主張しているのです。

結論 – 存在論の新しい地平へ

抽象と存在

私の研究の目標は、デネットの存在論的立場を明らかにすることにあります。

以上のような先行研究の分析から、還元主義と実在論を両立させられる存在論のためには既存の理論では不十分であることがわかりました。

それゆえに新しい解釈、新しい存在論の枠組みが必要です。現段階ではまだ仮説の段階ですが、私はデネットは「存在する」「存在しない」という二分法を捨てようとしているのではないかと思っています。

現行の存在論では、例えば意識は存在するか存在しないかのどちらかしかありえませんでした。しかしこの立場では意識などの高次のパターンは物理的な対象よりも存在しませんが、しかしながら存在しないわけではないと言うことができます。

素粒子、原子、脳神経、意識というように対象のカテゴリーが高次になるにつれて、対象の抽象度は上がっていきます。このような抽象的な対象についての理論は先ほど述べた予測にかかる時間を節約するために、科学の発展によって消去されることはありません

ただし現在より実在として広く認められているのは抽象度の低い対象、基礎物理学の対象です。こうした意味でこの立場は自然科学を重視する立場を保持しています。

また意識などの高次の対象は低次の対象の大規模な組み合わせが抽象化されることで成立していると考えます。例えば意識は大量の脳神経の働きが組み合わさったものを抽象化したパターンです。

そしてこのような高次の対象が抽象的でありながら実在するのは、物理的な対象「から」構成されているからです

この点は進化のプロセスによって意識が生まれてきたというデネットの主張と親和しています。

そして日常的な思考の対象を抽象的ながらも実在物として扱っているので道具主義ではありません。この意味でこの立場はデネットのいう「弱い実在論」を解釈したものといえるのではないかと考えています。

科学と常識の関係の解明

このような解釈によって、私のより包括的な関心、「科学」と「常識」の関係にも一つの答えが与えられることになります。

科学は厳密な学問でそれに対して常識的で日常的な考え方は曖昧なものだというのは正しいでしょう。なぜなら日常的な考え方は科学よりも抽象的なものを扱っているからです。

しかし抽象的だからといって、その対象が存在しないということではありません。日常的な考え方の対象は(科学の対象に比べてやや弱い意味ですが)ちゃんと存在しています。机もスマートフォンも意識も当然存在しているのです。

一方で例えば魂やクオリアなどの物理学と矛盾するような対象は存在しません。なぜならそれは科学的な対象に基づいたものではないからです。こうした意味で科学には常識を統制する働きがあります。

そして科学が生み出す予測は厳密で正確ですが、常識が生み出す曖昧な予想も役に立ちます。なぜなら厳密な予想を出すには時間がかかり、人生は有限だからです。

そうした意味で「科学」と「常識」について、使い道の違いによって棲み分けがなされていると言えるでしょう。

以上がデネットの存在論についての研究から私が導いた「科学」と「常識」の関係です。

今後の展開/文献案内

今後の展開

ここではかなり最近のデネットの思想を中心に紹介しました。それに対して70年代や80年代のデネットの論文を読んでいると、90年代以降の著作よりもかなり先行する哲学者(クワインやセラーズ、またその他同時代の哲学者)に対する自分の位置を意識して書いているようです。

この時代の著作を読み込めばデネットが前提として持っている哲学的な立場がより明確になるかもしれません。今後はいま述べたようなデネットの論文を読んで逐次アップデートを重ねながら修士論文を書いていくことになるでしょう。

さて、哲学科の大学院生がどういった研究をしているのかについてややざっくばらんにですが書いてみました。極力専門用語を使わないようにしたつもりですが、説明の都合上やや難しい用語が出てしまったかもしれません。

もし理解できないところやさらに詳しく知りたい点などがありましたら、メール(yukioshima0326@gmail.com)やツイッター(@Re_venant)などでいつでも質問してください。

それでは、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。最後にさらに詳しく学びたい人のための文献案内を載せておきます。

文献案内

デネットの著作はかなりの数が和訳されていて、日本語でもある程度アクセスできるようになっています。

初読者へのおすすめは最近出版された『心の進化を解明する――バクテリアからバッハへ』(原著 : “From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds (2017))です。この本ではここで紹介した進化論についての主張から意識についての哲学まで網羅されているので入門編としてちょうどいいでしょう。

この記事で紹介した本の中では心の哲学については『解明される意識』(Consciousness Explained (1991))、進化論については『ダーウィンの危険な思想―生命の意味と進化』(Darwin’s Dangerous Idea: Evolution and the Meanings of Life (1995))が和訳されています。

以上三冊どれも分厚くて大変ですが、読んでみる価値のある本だと思っています。

またデネットの他に紹介した中でネーゲルの『コウモリであるとはどのようなことか?』(What Is It Like to Be a Bat?(1974))という論文がデネットとホフスタッターが編集した論文集『マインズ・アイ』(The Mind’s I (1982))に収められています。

チャーチランドの『消去的唯物論と命題的態度』(Eliminative Materialism and the Propositional Attitudes (1981))の和訳は信原幸弘の編集による論文集『シリーズ心の哲学〈3〉翻訳篇』に収録されています。

最後に手前味噌ですが他者、AI、虚構 / 「志向姿勢」入門という題で「志向姿勢」という今回扱わなかったデネット哲学の側面からのもう少し詳しい入門記事を書いているので、もしよければそちらも参考にしてみてください。

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参考文献

Churchland, P. (1981). Eliminative Materialism and the Propositional Attitudes. The Journal of Philosophy, Vol. 78, No. 2. pp. 67-90.

Dennett, D. (1991a). Consciousness Explained. Little, Brown and Company.

Dennett, D. (1991b). Real Patterns. The Journal of Philosophy, Vol. 88, No. 1. pp. 27-51.

Dennett, D. (1995). Darwin’s Dangerous Idea: Evolution and the Meanings of Life. Simon & Schuster.

Dennett, D. (2000). With a Little Help from My Friends. Dennett’s Philosophy A Comprehensive Assessment. D. Ross, A. Brook, and D. Thompson (eds.). MIT Press.

Haugeland, J. (1993). Pattern and Being. Dennett and His Critics. Bahlbom, D. (ed.). Blackwell.

Nagel, T. (1974). What Is It Like to Be a Bat?. The Mind’s I. (1982). Dennett, D. and Hofstadter, D. (eds.). Bantam Books.

Ross, D. (2000). Rainforest realism: A Dennettian theory of existence. Dennett’s Philosophy A Comprehensive Assessment. Ross, D.,Brook, A. and Thompson, D. (eds.). MIT Press.